ケ.ツの開発よりも高確率で経験するようなことだ
すれ違った人の顔が一瞬母親の顔に見える。
あれ?っと思った瞬間には、別人だと気がつく。
たとえば年齢や背格好が似てる人ならまだしも、年齢も性別も背格好もバラバラの人なのに、ほんの一瞬だけ顔が母親の顔に見える。
そんなことがほぼ毎日のように1日に4~5回あった。
さすがに何かあったんじゃないかと思って何度か電話をしたが、母親の様子はいつもと変わりがない。元気そう。
気のせいで済ましていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~
3月、母親から電話があり、春くらいに従兄弟たちやみんなで集まってバーベキューをするという。
あんた1人だけ行かないわけにいかないから、絶対に来いと。
そういう集まりにあまり行こうとしない俺の性格を見越して、絶対に参加することを強く約束させられた。
そして4月に入ってからバーベキューの日が5月6日に決まったという知らせがあった。
4月24日の朝、妹から母親が入院したとのメールがあった。
このときは「念のために検査」という目的で、午後には本人からも電話があり、「たぶんお母さんはバーベキューには行けないけど、あんたは絶対に行きなさい」とのことだった。
5月6日、バーベキュー。妹は母親の看病のため参加しなかった。
20年以上ぶりに会う従兄弟たちはもう充分にオッサンオバサンになっていて、俺以外には1人を除いてはみんな結婚している。
4~5歳の子供がいるやつもいる。
それを羨ましそうに見ている父親を見ていると胸が痛んだ。
従兄弟たちにも「にいちゃん、早く結婚しておばちゃん安心させたって」と散々言われ、少々鬱陶しく感じながらも、小さな子供たちを羨ましそうに見ていた父親や入院中の母親のことを思うと、返す言葉もなかった。
バーベキューは思ったよりも楽しく、叔母や従兄弟や血のつながったやつらと会うのも悪くないと思い、お互い連絡先を交換した。
▼
さっき、お腹にチューブ通して腹水抜いた
お父さんには、今晩話すけど
お母さん、肝硬変がだいぶ進んでて
見た目以上に危ない
多分これ以上の治療は、意味がないから
もう少し様子をみて退院するけど
在宅で往診してもらいながら、ゆっくり何もせずに過ごした方が良いらしい
その前に腹水が、まだまだたまるようなら
たまった水にも栄養があるから
血管に腹水を通す手術するかも…
癌みたいに命の期限はないけど
「家族はそれなりの心構えが必要」
ちょっと調子が良い時に、温泉に連れていってあげるとか
残りの時間を大切にしてあげて下さいって言われた
▲
このメールを読むまで腹水が溜まっていることも知らなかった。
てゆーか腹水ってなに?
検査のための入院じゃなかったの??
それなりの心構えってなに???
そもそも肝硬変ってなに??
たしかにそうだった。思い出した。
当時俺は外で悪さばかりしてて、母親が病気になったと聞いても気にも留めなかった。
それから20年、毎月検査をしていたが、これまでは目に見えるような変化もなく元気だった。
それが今年の2月くらいから急激に悪くなったらしい。
目の前が真っ暗になった。
どうしよう?どうしよう?しか頭になかった。
つい昨日、そろそろ親孝行しないとなーなんて考えてたところだったのに。
いまさら後悔しても始まらない。
残りの時間とやらがいつまであるかは分からないけど、できるだけ親孝行しようと心に決めた。
そして、できる限り病院へお見舞いに行くようにした。
1週間後の5月14日の夜、妹から電話があった。
駅からだろうか、電話の向こうでホームのアナウンスと雑踏が聞こえた。
妹は泣いていた。
その泣き声を聞いた瞬間、血の気が引いた。
母親の余命は3ヶ月だった。
今年に入ってから頻繁に見てた母親の幻覚の理由はこれだったか。
虫の知らせってやつだったか。
妹が病院で告げられたらしい。
今は普通に話せるし、トイレも1人で行けるけど、近いうちにそれもできなくなり、腹水も黄疸も今以上に酷くなり、熱が出て、脳性肝症になれば意識が混濁しこん睡状態になり、そのまま死んでいくという。
電話を受けた俺は妙に落ち着いていて「そうか、わかった。明日病院に行く」とだけ伝えた。
落ち着いて話しができたのは、電話の向こうで妹が泣いていたからだと思う。
妹はこの数週間、1人で母親の面倒を見ていた。
余命宣告を受けても誰にも言うつもりはなかったらしい。そのことを看護師に言うと「本人やお父さんにはともかく、お兄さんには絶対に伝えないとダメ!」と強く言われたらしい。
ありがとう
両親は2人そろって気が弱い。
絶対に言えない。
妹との電話を切ってからはあまり覚えていない。
何人かの友達に泣きながら電話したと思う。
0時過ぎになってふと我に返り、朝まですごい勢いで母親の病気の事を調べ始めた。
原因、治療、予後、家族にできること。できる限りのことを調べた。
翌日、病院へ行き主治医と話した。
長男でありながら、余命3ヶ月の母親の主治医と話すのはこれが初めてだった。
今年に入ってからの検査数値やCTスキャンの画像なんかを見せられ、現在の状態では3ヶ月後に亡くなる確率が50%。
でも中には1年くらいはもつ人もいると説明を受けた。
どっちにしろ1年もたないらしい。
昨晩から調べに調べて、心に決めていた1つの言葉を投げかげてみた。
「生体肝移植はできないですか?」
医者は少し黙ったあと
「・・・・できないことはないですけど、今のお母さんの体力で手術ができるかどうか・・・」
俺は見逃さなかった。
生体肝移植という言葉を出した瞬間に、医者の表情が少し、ほんの少しだけ緩んだ。
ホっとしたような顔をした。
引き下がってたまるか。
「素人考えで申し訳ないですけど、助かるにはそれしかそれしかないんですよね?もう遅いんですか?」
「いや、遅くはないです。・・・手術するなら今しかないでしょうね。でもあれは本当に大変ですよ。がんばれますか?」
もう医者は笑顔になっていた。
俺は心の中でガッツポーズをしてた。
悪くなった人の肝臓をすべて取ってからそこに健康な肝臓を移植する。
移植したほうも、されたほうもだいたい1年くらいで元の大きさと機能に回復する。
ドナーは、まず健康であること、そのほか患者から3親等(病院によって違う)までの人に限るとかそういう条件がある。
つまり家族のうち2人が大手術&長期入院することになる。
もちろん経済的にもかなり負担がかかる。
後から聞いたところ、母親がいよいよというときには医者のほうから生体肝移植の話を切り出すつもりだったらしいが、
手術の性質上あまり積極的に医者が勧められるものではなくて、中には手術をしたくてもドナーになれる人が身内にいないとか、
他の理由でしたくてもできない場合もあるので、手術ができなかった場合、残された家族が負い目とか精神的にダメージを受けるかららしい。
そして医者の中には、健康な人の腹を切り、内臓を取り出すこの手術を倫理的な理由で嫌う人もたくさんいるらしい。
「大丈夫です。今は血液型が違っても移植できます。じゃその方向で進めましょう。」
医者はさっきまで言葉を選びながらゆっくりと話していたのに、移植の意思を示したあたりから急に早口になり口数も多くなった。
医者は続けた。
「お母様には私から移植の件を話しますね。息子さんや娘さんが話すとたいていの場合は移植手術を断る人が多いんです。ドナーにも少なからず危険はありますから健康な自分の子供をそんな目に合わせられないって人が多いんです。」
俺は「いや、私が母に言います。ちゃんと説得します。」と言った。
母親には余命を隠している。
しかもこの時点で、翌日に母親は退院することが決まっていた。
本人には、家でしばらくゆっくりして様子を見ると伝えていた。
でも本当は余命を穏やかに家で過ごさせるため。
そんな母親に移植手術なんて大層なことを承諾させるのは難しくないですか?と医者は気遣ってくれた。
なぜか俺が言わないといけないような気がしてた。
前日の電話で妹が泣きじゃくってたのが頭から離れなかったのもあったし、今後は俺ができる限りのことは何が何でもやってやろうと思ってた。
本人は少し休めば元気になる程度にしか思っていないので、なにかと家事をしたがる。
気が気じゃなかった。
退院した夜、父親に話した。
気の小さい父親のこと。余命宣告だけなら話すつもりはなかったけど、移植手術をするとなるとまた話は違う。
ちゃんと話しておかないといけない。
お母さんはこのままだと3ヶ月の命だということ、助かるには俺か妹のどちらかがドナーになって生体肝移植をするしか方法がないこと。
黙って俺の話を聞いていた父親はあきらかに動揺していた。
「わかった。お前に任せる。」と言うのが精一杯のようだった。
話をして1時間くらい経ったとき、父親が俺の部屋に来た。
部屋に入るなり父親は俺に土下座をした。
「頼む!お母さんを助けてやってくれ!お父さんはなんもできへん!頼むから助けてやってくれ!お願いや!」
父親は見たことないくらいボロボロと泣いていた。
「お母さんな、生体肝移植するから」
「え?なにそれ?」
俺がドナーになって肝臓を母親に移植すると伝えた。そうすれば助かると。
「お兄ちゃん、お酒いっぱい飲むのに大丈夫なん?私のんじゃあかんの?」
「どっちがドナーに適してるんかは色々検査せな分からんやろうけどな。お前はドナーになってもええんか?」
「全然いいで。それでお母さん助かるんやろ?」
必ずしも助かるとはいえないけど、日本ではこれまで9000例以上行われてる手術で、そのうち手術後5年生存率が約80%あることを伝えた。
妹は本当に嬉しそうだった。
このまま続けてくれ
これらはもちろん「家でゆっくりと余生を過ごさせる」ため。
移植手術の話をする前から、入院先の病院が手配してくれていた。
母親は「そんなたいそうにしてもらわんでもええのに・・」と笑っていた。
在宅医療の医者を見送るとき、家を出たところで移植手術を計画していることを伝えた。
この医者には、入院先の病院から母親の病状や予後は引き継がれている。
先生は「うん、それしかないでしょうね。でも大変ですよ。頑張りましょうね」と言ってくれた。
すぐに母親の寝てる部屋へ行って移植手術のことを切り出した。
このときに俺が言った言葉は死ぬまで忘れない。
「お母さん、あのなぁ、今ごっつしんどいやろ?これからゆっくりして良くなったとしても、また次に悪くなったら大変やからな。今みたいに多少でも元気なうちに肝臓の移植手術受けたほうがええんちゃうか?」
「移植!?誰のを移植すんの?」
俺か妹のどちらかだというと、母親は一気に顔を曇らせた。
「大丈夫やで、いまどきの医学はすごいねんで。移植ゆうても盲腸の手術みたいなもんやわ。パッパーッと切ってどっちがドナーになっても一ヶ月くらいしたらピンピンしてるわ。」
俺は嘘をついた。数は多くないにしてもドナーの死亡例はある。死なないまでも重篤な後遺症を残すこともある。
母親はしばらく考えたあと「じゃ、あんたらにまかせるわ」と言った。
簡単に承諾したので拍子抜けした。
すぐに入院してた病院に連絡をして、母親が手術を承諾したことを主治医に伝えた。
1日でよく説得できましたねと言われた。
嘘をついたとは言えなかった。
1週間ほどして病院から連絡があった。
生体肝移植ができる病院はK、H、Sの3つあるけど、どこにしますか?
俺はなんとなく自宅から近いという理由で「S大でお願いします」と伝えた。
折り返し連絡があり、すぐに紹介状を送るので、それを持って5月22日にS病院に行ってくれと言われた。
これで助かると思って嬉しかった。
余命宣告された日から有休を使って仕事をずっと休んで、母親の世話をしたり、在宅介護や医者や役所の手続きなどで追われていた。
これまでのように妹にまかせっきりにするのはやめようと思った。余命宣告を1人で聞いて抱え込んで泣いていた妹に申し訳なくて仕方なかった。
家族全員でS病院へ行った。
カウンセリングルームみたいなところへ通され、この1週間ほどの間にネットで散々顔を見た教授先生がまず簡単に話をしてくれて、主治医となる先生と移植コーディネーターさんを紹介してくれた。
主治医は30代半ばくらいのかわいらしい顔をした女性。
正直、最初は大丈夫かな?と思ったけど、手術の概要やスケジュールを説明してくれた主治医の様子を見て安心した。
ふにゃっとした話し方ながらも要点をきっちり押さえてて、こちらが知りたい情報をテキパキと説明してくれた。
生体肝移植の問題点や合併症の危険性を聞いた。
同時に移植手術が上手くいけば、ビックリするくらい元気になるとも聞いた。
そして最後に主治医から母親への生体肝移植への意思確認がされた。
「お母さん、これからかなりしんどいこともありますけど、頑張れますか?」
その問いに、朝から動いてしんどかったであろう母親は小さい声で搾り出すように
「今みたいにしんどいのはもういやです。元気になれるならなんでも頑張ります。なによりこの子達のためにも頑張ります。」
妹が泣き出した。
部屋には主治医、コーディネーターの他にも大学病院ならではの研修中の医学生たちが10人ほどいたんだけど、その学生たちもなぜか泣いていた。
それを見て俺までがもらい泣きした。
「大丈夫、お母さんがその気持ちなら私たちも目いっぱい頑張ります。1年後には今日のことは思い出話になってますよ。一緒に頑張りましょう!」
この日までの役所まわり、介護関係の書類、そのほか今までやったことのないことを必死でやってた疲れと、この先どうなるのかって不安もあって、俺は精神的にかなり参っていた。
それがこの日の母親と主治医のやりとりを聞いてすごく元気になって勇気をもらった。
コーディネーターさんに今日はいったん帰ってもらって、あらためて入院や検査の日程をお知らせしますと言われた。
帰る間際に、今日なんとか母親の腹水だけでも抜いてもらえないか頼んだ。
どちらかといえばスリムな母親のお腹は腹水が溜まって膨れ上がり、動くのもしんどそうだったのでかわいそうで仕方なかった。
抜いてあげたいけれど、今後の手術のことを考えると、針を刺す処置は感染症の危険もあるのでできればしたくない。お母さんには悪いけどもう少しだけ辛抱してくれと言われた。
3日くらいしてから、5月31日に入院が決まったとコーディネーターさんから連絡があった。
そのときに俺ら兄妹2人もドナー検査をするので家族全員で来てくれといわれた。
入院の日が決まり、ニュースやドラマでしか聞いたことのなかった「生体肝移植手術」というものが、現実にすぐそばまで来た。
もしかしたら自分がドナーになるかもしれない。
俺の覚悟は決まっていた。
手術が上手くいって母親が元気になるのなら、俺の寿命から10年、いや20年減らしてもかまわない。
これまでにかけた心配と迷惑を考えれば、それでも足りないくらいだ。
本気でそう思っていた。
調べてると気になることがあった。
「手術後、移植された肝臓が定着するまでは免疫抑制剤を大量に服用するので、退院後数ヶ月の間はペット(犬、猫、鳥)とは一緒に生活できない」
実家には猫が2匹いる。
母親にもよくなついてる。
どうしよう。。。。
俺は京都に1人で住んでいる。でもこんな状態じゃしばらくは実家から離れられないだろう。
このままだと京都の会社までの交通費もバカにならない。
もう京都を出て実家の近くにマンションを借りよう。
母親が退院したら、免疫抑制剤の量が減って実家に帰れるようになるまではそこに一緒に住もう。
それに今回のことを乗り切っても、今後なにがあるか分からない。
近くで住んでるほうが絶対に良い。
母親に相談した。
2つ返事で賛成してくれた。母親は嬉しそうだった。
自分の子供が近くに住んでくれるのはやっぱり嬉しいんだろう。
すぐに不動産屋へ行った。
一時的にとはいえ母親も住む。だから母親の生活環境が変わらないところ(たとえば通えるスーパーが一緒)を探した。
そしてマンション生活には無縁の田舎育ちの母親がモダンなマンションというのにずっと憧れているのも知っていた。
広くなくてもいいからとにかく綺麗でお洒落なところがいい。
2人で住むのがしんどい広さなら、その間は俺が実家に戻っててもいい。
時期や状況によって居住者が変わるかもしれない。
不動産屋には事情を全部話した。
すると話が終わったくらいで、担当してくれた不動産屋が涙ぐんだ。
びっくりした。
俺は契約上必要だと思ったので事務的に話したつもりだった。
こんなことってあるんだろうか。
不動産屋のお母様もつい先月移植手術を受けたという。
生体腎移植。
ドナーには兄がなったという。
幸い術後の状況は良いらしい。
そのときに、実家から離れて住んでいて、母親が大変なときに何もできない自分が悔しかったらしい。
彼からすればこうして母親のために色々動ける俺のことがうらやましいと思ったに違いない。
これも何かの縁だろうか。
結果、実家から歩いて5分のところの綺麗でお洒落な部屋を借りた。
決して広くはない1LDKだけど、部屋の内装的にもきっと母親が気に入るような部屋だ。
一緒に下見に行った妹のお墨付き。
問題は引越しの日程だった。
余命宣告を受けた次の日から、京都には1度も戻っていない。もちろん引越しなんて思いもしなかったから準備もしていない。
今は1日たりとも、実家を離れたくはない。
引越しするなら5月31日に母親が入院してから。
そしてドナーとしての検査もいつ入るか分からないし、あまりダラダラしてると手術と重なってしまうかもしれない。
とにかく何もかもスムーズにすばやく引越しする必要があった。
同時に移植手術を受けるにあたっての役所への手続きも忙しくなっていた。
一時期はしんどくてつらくて不安だったけど、この頃の俺はとんでもなく気合が入って、なにもかもテキパキとこなした。
この時期の俺は判断力と行動力はすごかった。
なにもかも母親に健康を取り戻してもらうため。
自分で言うのもなんだけど、この先何十年経っても、誰に対しても、このときの俺は胸を張れる。
なぜか母親は、俺や妹や父親よりも後に、最後に家を出ようとしてた。
俺は玄関先でドアを開けたまま、早く行こうと促した。
母親は家の中を軽く見回して、フゥとため息をつき、猫2匹に「ちょっと行ってくるからね。いい子にしとかなあかんよ」と言って猫2匹の頭を指でちょんとつついた。
病院へ着き、入り口にある車椅子を借り母親を乗せた。
車椅子を押しながら自動ドアを抜けるときに言った。
「今度ここを通るときは、たぶんお母さん歩いて通れるで」
母親は嬉しそうに笑っていた。
ほどなくして、4人くらいの医者がやってきた。
前回来たときに話をした教授先生でも、主治医の女性でもなかった。
一番前で挨拶をしてくれた先生は丁寧な感じだったが、その後ろにいた若い医者数人の態度がムカついた。
「あのねー手術はかなりキツいからねー、いや、本当にしんどいよー」
みたいな、タメ口で不安を煽るようなことばかり言う。
その医者の年齢はおそらく母親の半分くらいだ。
年齢差が関係なくなるほどに、医者は患者より偉いのか。
母親を見ると不安そうな、泣きそうな顔になっていた。
一番前にいた先生が空気を読んでフォローしてくれた。
その後、俺ら兄妹もドナー検査をして、母親にまた明日来るからと言って病院を後にした。
その夜、母親は1人の病室で便意を感じ、トイレに行こうとするも間に合わずベッドで粗相をしてしまったらしい。
肝障害の影響で腸がだいぶ弱ってきてるんだろう。
看護師さんは気にしないでいいと言ってくれたらしいけど、母親の性格を考えると可哀想で堪らなかった。
病院へ行ったりする都合を考えると、引越しの準備は実質3日しかなかった。
ワンルームマンションとはいえ、なんせ10年も住んだところだ。
3日じゃなかなか難しい。
とにかく捨てようと決めた。
もうベッドもソファも冷蔵庫も洗濯機も服も衣装ケースごと、全部捨てて、とにかく身軽にしよう、そして家電は新しく買おう。
退院後の母親にとっても、俺が10年使ったお古の家電より新しいほうがいいだろう。
それになんとなく身の回りを綺麗にしたかった。運気も良い方に変わるんじゃないかとも。
このときは断捨離という言葉を知らなかったけど、このときに俺がやっていたのはまさに断捨離そのもので、なかなか良いものだと思った。
ここしばらくは調子が良かったので忘れてた。薬もない。
話がそれるけど、俺が喘息になったのは昨年末くらいから。
今年に入ってから急激に悪くなり、生まれて初めて喘息の発作というものを経験した。
そのときは自分の体に何が起こってるのか分からなくて、とにかく落ち着こうとゼェゼェ言いながらタバコを吸いまくって、悶絶の苦しみを味わった。
京都のマンションの掃除が終わり、夜遅くに京都から西宮へ戻る電車で発作が始まり、実家近くの駅を降りた瞬間に救急車を呼んだ。
とりあえず病院で応急処置をしてもらって、落ち着いたときにそこの先生に、もしかしたらドナーになるかもしれないって話をしたら、
今の状態でドナーになんかなったらかなりの確率で死ぬと言われた。落ち着いた状態なら多少の喘息持ちでも大丈夫だけれど、こうやって1度でも発作が起きたら当分はドナーになんかなってはダメと言われた。
でも俺は、そんなこと言われても知ったこっちゃないってのが本音だった。
「ここには何を置くの?」とか「この奥はどうなってるの?」とか本当に嬉しそうにニコニコしながら色々聞いてきた。
そうしてると看護師さんがやってきて、「あ、お兄さん引越しは終わったんですか?わー綺麗な部屋ですねぇ」と言い、母親のほうを見て「綺麗なところでお母さん良かったねぇ。」と声をかけた。
どうやら、俺が実家近くにマンションを借りて、一時的とはいえ母親と住もうとしていることが、母親はものすごく嬉しかったらしく看護師さんにも話していたようだった。
ふと母親の枕元を見ると、俺が不動産屋でもらってきた引越し先の部屋の間取り図をコピーしたものが大事そうに置いてあった。
あとから看護師さんが教えてくれたが、母親は1人でいるときにしょっちゅうその間取り図を見ているらしい。よほど楽しみなんでしょうねと。
けど、ドナーには俺と妹のどちらが適しているかを聞いた。
結果はどちらでも大丈夫。
ただし、医学的に言うなら母親と血液型が同じ妹がドナーになるほうが良いといわれた。
もし俺がドナーになるなら血液型不適合移植手術となり、その場合はこのS病院では手術ができないので、血液型不適合移植手術のできるK病院へ移ってもらうと言われた。
さらに血小板の入れ替えなどをするので手術前の準備が長引くとも。
そこまで言われると妹がドナーになるしかなかった。
幸い、妹は自分がドナーになることを嫌がるどころか、むしろ喜んでいたので俺はなんの文句もなく、妹がドナーになることを承諾した。
手術日が6月28日に決まった。
そしてもう一度手術の説明をした上で、母親とドナー(妹)の最終的な意思確認をするので22日に家族全員で病院に来てくれと言われた。
俺や妹は、なにかとすることが多かった。
俺は引越しや手術にあたっての役所関係の手続きやなんか、妹は当然ドナーとして体調を整えたり、何より術後3ヶ月は仕事を休まなければならなかったので、休職に備えた引継ぎ等で大変そうだった。
父親は何もなかった。
何もできる事がないから歯痒かっただろうし、つらかったと思う。
だからせめてこれくらいはと思ってたのか、ご飯を食べたあとの食器を自分で洗って片付けたり、掃除をしたり今までしたことのないことを、誰からも頼まれていないのにやったりしてた。
そして夜はほとんど眠れていないようだった。
そんな生活を一ヶ月以上続けていると、父親の耳が片方聞こえなくなった。
病院へ行っても原因不明で、おそらくストレスによるものだろうとのことだった。
本当ならもっと労わってあげたかったけど、この頃は俺も妹も母親のことで頭がいっぱいだった。
母親の悪くなった肝臓を全摘出して、妹の肝臓の約65%にあたる540gを移植する。
妹に残るのは元の35%の大きさの肝臓しかない。これは肝臓が自力で回復する大きさのギリギリに近い大きさらしいけど、妹の健康状態や年齢、体力からすればまず大丈夫だろうという医者の判断だった。
それよりも移植する肝臓が小さすぎるとグラフト不全が起こり、せっかく移植した肝臓が機能しなくなる。それは避けたいと。
あと手術後の注意事項、特に感染症にだけを気をつけてくれとのことだった。
免疫力を極端に下げている状態ではいつどこでどんな菌に感染するか分からない。
健康な状態なら栄養ドリンク1本飲めばどうってことないような菌でも、手術後しばらくはそれが命取りになることもある。
最後に本人と妹の意思確認が終わった後、医者が笑いながらこう言った。
「うん、最初に来たときから思ってましたけど、お母さんもご家族も多分頑張れますね。これまで何人も移植手術したし、何人もの家族に接してきたから分かるんです。
こういう言い方はなんですけどね。移植手術を受ける患者さんとして、お母さんのお人柄や治療を受ける心構えといい、それぞれ役割分担して精一杯サポートするご家族といい、病院からすれば理想ですよ。もう少しです!頑張りましょう!」
泣きそうになった。
麻酔も怖いし
手術後は2人ともここに入る。
目を覚ましたときは、機械だらけの知らない場所で目を覚ますことになる。
人によってはそれで不安になりパニックを起こすんだという。
だから前もって見学をさせてくれた。
ICUの中は本当に機械だらけで、正直言って健康な人でもあそこで寝たら病気になるなと思った。
それから手術までの1週間はこれまでにもまして大変だったように思う。
とにかく用意するものがめちゃくちゃ多い。今思い出せるだけでも、お茶、水がそれぞれ1ケース。清浄綿、オムツ、パジャマなどなどなど。しかもそれぞれが大量。
さらに母親の身体障害者の申請をしてくれと言われた。
手術前は2級、手術が終われば今度は1級の申請をしてもらうと言われた。
なんだかんだと忙しく過ごし、手術前日に妹が入院した。入院したといっても妹は健康なわけで、前日はずっと母親のそばにいて話をしてたらしい。
母親はもうかなり弱っていた。
顔もお腹もパンパンに浮腫み、顔色は完全に土色で、自分の力だけでは上半身を起こすのがやっとの状態で、とても立てるような状態ではなく、ほんの1ヶ月前に1人でトイレに行ったり、お風呂に入ったりしていたのが信じられないほどだった。
喋るのはできるが、体中で搾り出すような声で聞いていてつらかった。
気がつけば余命3ヶ月と言われてから約2ヶ月が過ぎていた。
確かに、このままだとあと1ヶ月はもたなかっただろうなと思い、あのとき移植手術をお願いしてよかったとつくづく思った。
なによりも今は希望がある。
本人ももちろんそうだけど、家族全員どれだけしんどい思いをしても頑張ってこれた
のは、手術を乗り切ればまた元気になるという希望があったから。
とにかく「希望」というものに家族全員がしがみついていた2ヶ月だった。
6月28日
いよいよ手術の日がきた。
ドナーの妹は朝8:30から。
母親は1時間遅い9:30から。
8時過ぎに病室へ行くと妹の姿はもうなかった。
ついさっき手術室へ向かったそうだ。
母親のところへ行った。
ベッドのそばには父親が座っていた。
母親と特に会話はしていない様子だった。
父親は何を話せばいいのか分からなかったんだろう。
少し涙ぐんでる父親をみてそう思った。
俺は母親に声をかけた。
「お母さん、やっとやな。長かったな。」
母親は話すのもしんどいのか、少し笑って頷いただけだった。
看護師さんが2人迎えにきた。
車椅子に乗せ手術室に向かう。途中から主治医も一緒に加わった。
エレベーターを待っているとき、母親の車椅子を押していた若い看護師さんが、母親の乱れた髪を整えるように、やさしく母親の頭をなでていた。
俺は心の中でありがとうとつぶやいた。
俺と父親は家族控え室に入った。
これから何時間かかるだろう?
スムーズにいけば妹は夜の8時くらい。母親は日付が変わるギリギリくらいに終わる予定だった。
待っている間は何もすることがない。
父親とも話すこともない。
俺はFacebookを更新したり2chを眺めたりして時間をつぶした。父親は目を閉じてはいたが寝てはいない感じだった。
夕方4時頃に猫にご飯をあげるために父親が家に戻った。俺はなにかあればすぐに連絡するから、家で寝ておいでと言ったが5時過ぎには病院へ戻ってきた。
夜8時、それにしても誰も何も言いに来ない。
それは何の問題もなく手術がうまくいってる証拠ではあったが、俺ら親子はやはり気が気でなかった。
2人とも手術はうまくいっている。
妹のほうは傷跡が残らないように形成外科の先生が縫合しているので少し時間がかかったけど、あと1時間もすればICUに移ると。
母親のほうも特に問題なく順調にいってるので、多分予定通り0時前後には手術が終わるとのことだった。
父親は泣いてお礼を言っていた。
俺だって泣きそうだった。
10時半頃、主治医とは違う別の先生が俺らを呼びにきた。
照明も落ち、暗くなったICUに入ると端っこの一角だけ明るくなっていて10人くらいの人だかりができている場所に目がいった。
その人だかりの中心に妹がいた。
もう意識は戻ってるので声かけてあげてくださいと言われ、妹のそばに来ると父親が先に「おーい」と声をかけた。すぐに妹が目を開けた。顔色は真っ白だった。
酸素マスクの向こうで小さい声で「・・・お母さんは・・?」と言った。
手術は無事に進んでいることを告げると、安心したようにまた目を閉じたけど、またすぐに目を開けさっきよりも小さい声で「ご飯・・・あげてきた?・・・」と言った。
家に残している2匹の猫のことだ。
ちゃんとご飯もあげてきたことを伝えると、また目を閉じた。
手術が無事に終わったのはこれ以上なく良いことだけど、俺は妹の血の気が完全に無くなった白い顔が心配だった。
手術後はこんなもんなんだろうけど、それでもやっぱり気になった。
あまり負担をかけてはいけないと思い、俺と父親は家族控え室に戻ることにした。
戻る途中にも父親は泣いていた。
「あいつは何も悪くないし、どこも悪くないのに親のせいでこんな目に合わせてしまって・・・・」
俺は親ではなくて兄だけど、父親の気持ちはよく分かった。
つらそうにしている妹を見ると、俺がドナーになればよかったと本気でそう思った。
案内されたのは母親のいるICUではなくて、面会室。
そこで少し待っていると手術を担当してくれた医師が大きなタッパーを持って入ってきた。
結論から言うと手術は無事に成功したと。まずそれを伝えてくれたのでホッとした。
医師がタッパーを開けると、そこには見たことの無い物体が入っていた。
64年間母親の体の中にあった肝臓。
でもそれは俺の知っている、いわゆるレバーと呼ばれるようなものではなかった。
赤みのあるツルっとした、ヌルっとしたような感じのものだと思っていたけど、まったく逆で母親の肝臓はゴツゴツした岩の塊のように見えた。
素人目に見ても、異常なことだと思った。
医師は手に取った肝臓を見ながら「これを見て分かるように、もう肝臓が完全に硬くなってしまって、1割も機能していない状態でした。お母さんは気力で今まで頑張ってきたんですね。」
硬くなった肝臓を実際に見て、あらためて母親が死に直面していたことを痛感した。
とにかく手術はうまくいった。
母親の肝臓がすべて取り出されたことで肝硬変は完治した。
ただ移植手術はこれからが本.番.と言ってもいいくらいで、今度は別の病気との闘いが始まる。
まず、新しく植えた妹の肝臓が母親の免疫力に負けずに定着してくれるかどうか。
これは免疫抑制剤を大量に使うことでクリアできる。
ただ免疫力がまったく無い状態になるので、次は感染症の危険と戦わないといけない。
この1日、次は1週間を乗り切ることが大事なので、決して気を緩めないでくださいと医師は続けた。
しかし父親はそうではなかったらしく、決して気を緩めないでくださいという医師の言葉に体を固くさせたのが横にいて分かった。
ICUに母親の様子を見に行った。
麻酔で眠っているので会話はできないけど、顔は見れるらしい。
同じICUでも、妹のいたエリアとは違う完全に隔離された別室に連れて行かれた。
手を消毒し、体を全部覆うエプロン、マスク、手袋をつけて入った。
母親は本当に生きているのか不安になるくらい静かに眠っていた。
布団の脇からパッと見ただけで10数本の管が出て、それぞれが色々な機械や器具につながっていた。
反対側はすべて母親の体のどこかにつながっているんだろう。
足元に母親の名前の書いた透明のケースがあり、上に小さな機械がついていた。
そのケースから出ている管は、布団の裾から入り母親の体に向かっていた。
おしっこも機械で取るのか・・・
しみじみと大変な手術なんだと思った。
聞こえはしないだろうけど、母親によく頑張ったなと声をかけた。
今できることはそれが精一杯だった。
父親は母親の顔をじーっと覗き込み、「・・・大変やったな・・・」と声をかけていた。
駅のそばのコンビニの前で父親と別れ、マンションに戻った。
心身ともに気絶しそうなくらいに疲れ果ててはいたけど、お風呂に入った。
風呂に漬かっているときに人生でおそらく最大の溜息が出た。
まだまだ危険は続くけど、とにかく一つの山を超えた。
この2ヶ月のことを振り返ると、そのときは安堵しかなかった。
本当に良かったと思った。
12時過ぎに起き、携帯の着信を確認したけれどどこからもかかってきていなかった。
もし何かあれば、病院からはまず俺の携帯に連絡が入るようにしていたので、少しホッとした。
叔母に連絡をした。
ほとんど叔母のことは書いていなかったけれど、叔母には本当によくしてもらった。
余命宣告されたときも、手術を決めたときも叔母だけには伝えていた。
母親の妹にあたるけど、本当に仲の良い姉妹で、母親は週に2回か3回は午前中を丸々つぶして叔母と電話で話していた。
よくあんなに話すことがあるなと何度も思ったことがある。
そして叔母も母親と同じ原発性胆汁性肝硬変と診断されている。
この病気は親子間での遺伝はないけれど、稀に兄弟間で遺伝することが分かっている。
叔母もそうだった。
叔母は自分のこともあってか生体肝移植をすると助かるというのを俺が伝えたときは心から喜んでいた。
手術が無事に終わったことを伝えると、今朝の俺と同じくらい大きな溜息をついて「よかった・・・」と言った。
従兄弟のNにも連絡をした。
本当なら連絡を取るほどの仲ではなかったかもしれない。
でも5月のバーベキューで連絡先を交換してからは、頻繁に連絡をとって経過報告をしていた。
俺と一番年齢の近いNは、もしも妹の肝臓がうまく移植できなかったときは、自分の肝臓を移植するつもりで、手術をしていた昨日はいつでも病院に行けるように準備していたらしい。
「血液型が違うにいちゃんよりも、俺ががやったほうがええやろ?俺血液型おばちゃんと一緒やし。」
ありがたかった。
昨年結婚して、2週間前に子供が生まれたばかりの従兄弟が何のためらいもなく、そう思っていてくれたのは本当にありがたかった。
すでに妹は手術の翌日の夜にICUから高度治療室へ移されてた。
後日に聞いたが、実は妹の容態も手術直後はかなり危険だったらしい。
大量出血し、事前に用意してた自己貯血を使い果たしたような状態だったらしい。
妹は普通に会話ができた。
痛い?と聞くとまだ麻酔が効いてるからそうでもないと言っていた。でも麻酔が完全に切れる明日からは地獄の痛みだと看護師さんに言われたと笑っていた。
母親のところへ行った。
ICUに入るときに、麻酔からは覚めているので声をかけてあげてくださいと言われた。
母親は目を瞑っていたが俺の「お母さん」という言葉にすぐに目を開けた。
まっすぐに俺の顔を見る。
ただ様子がおかしい。
俺の顔をじっと見ているのに、俺だと分かっていない。
ただ目を開けてじっと見ているだけ。
「分かるか?手術終わったんやで。頑張ったな」
声をかけても、何の反応も無い。
ただ俺の顔を見ているだけ。
母親の目には何の感情もなかった。
生まれてから今まで、母親からこんな目で見られたことはない。
かなりショックだった。
これがICU症候群か・・・
64才の母親が15時間に及ぶ手術をしたんだから、ICU症候群になるかもなぁって最初から思ってはいたが、実際に母親がそうなるとやはりショックだった。
まぁ時間が解決するだろうと深く考えないことにした。
「また来るからな。もうゆっくり寝とき」と言うと静かに目を閉じた。
言葉はちゃんと通じているみたいだ。
時間差で父親も様子を見に行ったが、やはり同じような状態だったらしい。
妹が早く動けるようになればいいのにと思った。
妹なら母親の正気を早く取り戻せるかもしれない。
一目見て母親の様子が変わっていることに気がついた。
下唇が血だらけになってパンパンに腫れあがっていた。
どうも麻酔からしっかり覚めるにつれ、ICU症候群のせいなのかベッドから逃げ出そうと暴れるようになったらしい。
体の管を抜こうとするので、抜けないように工夫をしたところ今度は自分の唇を噛みだしたという。
多分、現実を理解できない母親は怖くて仕方ないんだろう。
起こしていると可愛そうなので、しばらくは寝かせておくと言われた。
俺は母親の精神状態のことよりも、下唇の傷が気になった。
感染症は大丈夫なんだろうか?
まぁ素人の俺が心配するようなことは医師はとっくに手を打っているだろう。
何も言わなかった。
数日にわたって俺と父親と叔母が交代に様子を見に行った。
とにかく一日も早くコチラに戻ってくれるようにと声をかけ続けた。
妹も車椅子に乗ってICUに顔を出せるくらいに回復した。
ある日、俺と妹がいつものように声をかけていると、母親が涙を流した。
まだ意識がハッキリ戻っていない状態なので、どういう涙なのかはわからないけど、俺と妹は直感で「怖くて泣いているんだろうな・・・」と思った。
同じ手術を受けた人のブログやらを読んでいると、一番つらかったのは手術後の2週間だったとみんな書いている。
今が正念場なんだろう。
がんばってくれとしか言えなかった。
他の人たちならもうとっくに意識を回復しているはず。早い人ならICUを出ている人もいる。
母親はまだだった。
とにかく意識を正常に戻すのが先決なので、実家の猫の写真をICUの母親の目の届くところに貼ったり、よく朝、道上洋三のラジオを聴いていたので、枕元にラジオを置いてみたりいろんなことをした。
そのかいもあって、本当にゆっくりとではあるが母親の様子は良くなっていた。
母親の様子は朝と夕方と夜に自分の病室を出てICUへ様子を見に行ってくれていた妹がLINEで教えてくれた。
ある日、父親の「早く元気になってまた温泉いこうな」という言葉で少し笑った。
医師も看護師も喜んだ。
確実に良くなっていた。
2週間がすぎたころ、腎臓が悪くなっていた。
一時的にそうなるのはよくあることだけど、問題は肺のほうだった。
なんらかの理由で肺に水がたまっている状態で、それが元で肺炎を起こしかけていた。
医師は、水びたしになった肺を放っておくことはできないので、すぐに処置をしたい、でも免疫の無い今の状態で体にメスを入れるのは感染症の危険もあり非常に危険だが背に腹は変えられないといった意味のことを言った。
この頃は妹はほぼ回復していて、いつでも退院できる状態だったが、母親がそんな状態では退院なんかできるわけもない。病院もそれをわかっているので、妹はずっと入院したままだった。
「さっき先生に言われた。お母さん感染症にかかった。」
妹からLINEで送られてきた。
軽度なものから重篤なものまで色々。
「先生はなんて?」
の質問にたった一言
「危険な状態」と返ってきた。
目一杯、感染症について調べた。
そういう性分なんだろうけど、病院へ行く前にとにかく調べるだけ調べてできる限りの知識を詰め込んでおきたい。
病院で医師に今すぐどうこうではないけれど、少しやっかいなことになった。みたいなことを言われた。
その日の夜、また妹からLINEがあった。
「先生が話しあるって。明日の朝お父さんと一緒に病院に来て。」
この日は眠れなかった。
怖くて怖くて仕方なかった。
一晩中Facebookに何か書き込んでいたと思う。
家族3人で担当医師のところへ行くと、カウンセリングルームへ通された。
その部屋には俺ら3人のほかに医師やコーディネーターさんなど7人くらいいた。
直感で良くないことなんだと思った。
良い知らせなら担当医師1人で充分だ。
悪い知らせだからこそ、フォローするためにこんなにたくさんの人がいるんだろう。
医師がゆっくり説明しだした。
腎臓も良くならないし、感染症のせいもあってか肺炎がどんどん悪くなっていっている。
ついには最後まで頑張ってた移植したばかりの肝臓もつられるように悪くなり始めた。
正直言ってここでこうして話している間にも心臓が止まってもおかしくない。と
3人とも何も言葉が出ない。
妹は医師の顔をじっと見ていた。
父親はずっと下をうつむいていた。
俺は「もう何もできることはないんですか?」ときいた。
「いえ、まだ試していない治療もあります。もちろん私らはあきらめてはいません。」
そういうと一呼吸おいてから
「ただ、、、さっきも言ったようにいつ心臓が止まってもおかしくない状態です。だからもし、心臓が止まったとき、、、どうしますか?蘇生しますか?、、、一度止まってしまうと、お母さんの場合は内臓がボロボロなんで正直言ってそこから回復するのは厳しいです。」
医師は顔を上げている俺に向かってそう言った。
俺は父親のほうを見た。
父親は目を真っ赤にして、震える声で搾り出すように「できるとこ、、、まで、、、やってほしい、、、よな?」と俺に言った。
つまり心臓が止まっても蘇生して欲しいということだった。
俺も気持ちは一緒だった。
「蘇生してください」
俺がそう言うと、医師は妹のほうを見た。
妹は何も言わなかったが医師と目を合わせ頷いた。
俺は医師と妹のそのやり取りになにか違和感を感じた。
とにかくもし心臓が止まっても蘇生するということで落ち着いた。
部屋を出て、3人で妹の病室へ向かった。
フラフラになった父親に声をかけた
「お父さん、あのな。なんとなくやけど、お母さんギリギリのとこまでいってもなんとか助かるような気がするわ。」
父親は
「・・・お前がそう言うなら、お母さん助かるかもな」
俺はなぐさめではなくて本気でそう思っていた。
その日の夜、20時頃に妹から連絡があった。
「お母さん、今晩が山場らしい。でも今日を乗り越えたら希望がもてるって。」
ちょうどそのとき、俺のマンションに父親が来ていた。
俺は父親には「山場」とは言わずに「明日になれば希望が持てるかも」とだけ伝えた。
明日の朝、一緒に病院へ行くことにして父親を帰した。
どうも落ち着かない。
今日のうちに病院に行かなくてもいいのだろうか?
妹に聞くと「先生にはお兄ちゃんとお父さんは明日の朝来るって伝えたけど、今日来いとは言われなかったよ。」
何か胸騒ぎというかとにかく落ち着かなかった。
思い切って病院へ行くことにした。
駅へ向かう途中で父親に電話をして、「今から行くけどお父さんは明日の朝に来たらええから」と伝えた。
もうすっかり暗くなった病院のロビーを抜けて、ICUへ向かう。
ちょうど部屋に入るときにすれ違った看護師に「あ、お兄さん、お母さん頑張ってますから声をかけてあげてください」と言われた。
時計を見ると22時前だった。
病室では俺と母親の2人だけだけど、病室のすぐ外では3人くらいの医師が母親の容態を映すモニターとにらめっこしている。
俺は母親のそばに座り、パンパンにむくれあがった母親の手を握り「お母さん、きたで。もうちょっとやで頑張ろうな」と声をかけた。
部屋では呼吸器から聞こえるシューシューという音と、たくさんある機械から規則的に鳴るピッピッという音だけしか聞こえなかった。
おそらく母親の血圧の数値が表示されているモニターをぼけーっと眺めていたとき、急にその数値が0になったり200になったり乱高下しだした。
あれ?と思った瞬間、外にいた医師たちが病室に飛び込んできた。
おれは反射的に母親のそばを飛び退いて、病室の壁に張り付くようにした。
医師たちは大きな声で、なにか単語だけで会話していた。
母親の着ていたパジャマのボタンをすごい勢いで外した。
裸にされた母親の上半身を1人が少し浮かすように抱えあげる。
別の医師が、ベッドと母親の背中にできた隙間に鉄板の様なものを差し込んだ。
母親の上半身を戻し、鉄板の上に寝かせる。
1人の医師が母親の上に覆いかぶさるようにして、両手の平を合わせて、母親の胸にあて、力いっぱい叩くようにして何度も押し始めた。
何度か胸を押すと、急にその動作を止めて医師たちはいっせいに時計を確認しだした。
また胸を押し始める。
またやめて時計とにらめっこをする。
分かってはいた。
今、母親の心臓が止まって、蘇生をしてるんだと分かってはいた。
でもなにか夢の中にいるような感じでボーっとその光景を見ていた。
心臓マッサージを何度か繰り返すと、全員がホッとしたような顔をして病室から出て行った。
「はい」とだけ答えた。
妹が上の階の病室から降りてきた。
「お母さん、さっき心臓止まった。。。」というと
妹は小さな声で「うん」と答えた。
父親に電話してすぐに病院に来るように伝えた。
叔母にも連絡をした。
俺と妹は医師に呼ばれた
「お兄さんは一部始終見てたから分かるでしょうけど、先ほど心停止しました。今朝お話したときに言われたように蘇生しました。もし次にまた止まっても蘇生しますか?」
俺は即答できなかった。
今朝、蘇生してくれと言ったことは間違っていなかった。
もし蘇生しないでくれと言っていたら、母親はさっき死んでいた。
父親も妹も死に目に会えなかった。
俺だけしかいなかった。
でもさっき心臓マッサージをされている母親を見てしまった今は、強く今度も蘇生してほしいとは思えなくなっていた。
死んでほしくない。何が何でも死んで欲しくなんかないけど、もう一度あんなことをするのかと思うとつらくて仕方なかった。
医師にはもうすぐ父親がくるので相談させてくれとだけ言った。
実は昨日の晩、妹は医師に同じことを聞かれていたらしい。
「もし心臓が止まったらどうしますか?」と。
妹は「蘇生しないでくれ」と言っていたらしい。
もうこれ以上しんどい目に合わせたくないから静かに逝かせてやってほしいと。
ただ、このことは自分だけじゃなく兄と父親にも聞いてくれと医師にお願いしていた。
そして、きっと兄と父は蘇生してくれと頼むと思うので、そのときはどうかそのようにしてあげてほしい。と伝えていたそうだ。
今朝の医師と妹のアイコンタクトはこれだった。
俺と父親が、妹の言ったとおりにお願いしたので、それでお願いしますという合図だった。
妹は普段から母親と仲がいい。命を助けるために何のためらいもなく自分の肝臓まで提供した。
手術後も、可能な限り、自分の病室ではなく母親のいるICUでずっと様子を見てきた。
多分妹の判断が正しいのだろう。
父親が来た。
少し前に心停止したことを伝えた。
黙っていた。
次にまた止まったらどうする?の質問にはずっと黙って考えていたが、小さな小さな声で「お前に任せる」とだけ言った。
俺は医師のところへ行った。
「次に止まってもまた蘇生してください」と伝えた。
もう蘇生しないほうがいいんだろう。
そんなことは充分に分かっていた。
でも俺には「蘇生しなくてもいいです」の一言は絶対に言えなかった。
母親に死んで欲しくなかった。
まだまだ話したいことがたくさんある。
親孝行なんてなにもしていない。
絶対に絶対に助かると信じてここまで頑張ってきた。
今まで膨らむだけ膨らんだ希望を自分でしぼませることはできなかった。
妹のところへ行き、つぎも蘇生をお願いしたことを伝え、謝った。
妹は「いいよ」と言ってくれた。
叔母が来た。
もうすでに泣きじゃくった顔で、部屋に入るなりベッドの母親に抱きつき「あんた、いかんといて~」とすがった。
何時間か前に言われた、明日まで生きてれば希望が持てるということをふと思い出した。
それって今も有効ですか?
看護師さんに聞いた。
このままいけば朝まで生きている可能性は少ないけれど、逆に言えば朝までもてば悪くなるスピードが緩やかになっているということだから、朝まで頑張れば希望はあると思いますよ、と言ってくれた。
朝まで頑張れ。
もう蘇生しないほうがいいんだろう。
そんなことは充分に分かっていた。
でも俺には「蘇生しなくてもいいです」の一言は絶対に言えなかった。
母親に死んで欲しくなかった。
まだまだ話したいことがたくさんある。
親孝行なんてなにもしていない。
絶対に絶対に助かると信じてここまで頑張ってきた。
今まで膨らむだけ膨らんだ希望を自分でしぼませることはできなかった。
妹のところへ行き、つぎも蘇生をお願いしたことを伝え、謝った。
妹は「いいよ」と言ってくれた。
叔母が来た。
もうすでに泣きじゃくった顔で、部屋に入るなりベッドの母親に抱きつき「あんた、いかんといて~」とすがった。
何時間か前に言われた、明日まで生きてれば希望が持てるということをふと思い出した。
それって今も有効ですか?
看護師さんに聞いた。
このままいけば朝まで生きている可能性は少ないけれど、逆に言えば朝までもてば悪くなるスピードが緩やかになっているということだから、朝まで頑張れば希望はあると思いますよ、と言ってくれた。
朝まで頑張れ。
いつのまにか父親は母親のことを「おい」とか「お前」ではなく、名前で呼んでいた。
ただでさえ、ほとんど寝ていない上に疲労もピークになっていたので、何度か席を外して寝るように言ったけど、15分もすればすぐに戻ってきた。
多分、朝まで話しかけ続ければ、アッチに行くに行けなくなって戻ってくると信じているんだろう。
朝まで持ちこたえれば何とかなる。
朝になればもう1人の叔母も来てくれる。
みんな必死だった。
「あの、もしかしてお母さんやお父さんの出身って○○県の○○島ですか?」
「うん、そうやけどなんで?」
「え~!私その○○島の船着場の近くが実家なんです。さっきからお父さんが話してるのを聞いててもしかしてと思って。」
父親にそのことを伝えると母親のベッドを挟んで、その看護師さんと父親が盛り上がりだした。
まるで母親も一緒に3人で話しているように見えた。
その看護師さんは、俺ら家族が帰省したときに、必ず寄るうどん屋さんの娘さんだった。
父親は喜んでいた。、
母親に「おい聞いてたか!この看護師さん○○の娘さんやて!」と声をかけていた。
看護師さんもなにか嬉しそうだった。
俺はどうにも複雑だった。
すごい偶然だ。本当にこんなことってあるんだと思った。
でも一度止まった心臓を再び動かし、その間に父親や妹や叔母が勢揃いし、あげくに担当の看護師さんが同郷だなんて、そんなもの出来過ぎてると思った。
俺からすれば、今日この場で母親が死ぬフラグとしか思えなかった。
頑張った母親に神様がほんの少しのご褒美をくれたんだろうなとしか思えなかった。
このときに俺は「ああ、お母さん、死んでしまうんか・・・」と思った
母親の血液を検査する。
その検査の結果次第で容態がどうなっているのかがハッキリ分かる。
さっきの同郷の看護師さんが、独り言のように「良くなってるといいですね~」と言いながら血液を持って外に出た。
30分ほどして医師が病室に来た。
医師の顔は明らかに沈んでいた。
それは俺だけじゃなく父親も妹も気がついていたと思う。
父親は今まで以上に大きな声で母親に声をかけだした。医師に悪い知らせを言わせまいとしているようだった。
医師はつらそうに。ゆっくり話し始めた。
「え~と、今は呼吸もあるし落ち着いた状態ですけど、先ほど分かったんですが、昨晩に心臓が止まったときから脳が死んでしまっている状態です。今はいわゆる脳死の状態です。」
誰も何も言わなかった。
看護師もショックを受けている。
医師が続ける。
「だからもし次に心臓が止まっても蘇生は意味がありませんので、、、」まで言うと医師は俺の顔を見た。
俺が蘇生はやめてくださいって言うのを待っているんだろう。
俺は父親や妹ではなく、母親に向かって大声で声をかけた。
「お母さんごめんな!がんばったけどあかんかったわ。。。もし次に心臓止まってしもたら、もう、、、」まで言って俺は泣き崩れてしまった。
妹と叔母も泣いていた。
父親は母親の顔を見ながら「そんな、、、そんなアホなことあるか、、、そんなことあるか、、、」と繰り返していた。
医師はさらに
「今から何分か何時間か、いつまでもつか分かりません。でも脳死といってもお母さんはきっと声は聞こえてますよ。一杯話しかけてあげてください。」
ふと看護師さんをみると彼女の目も真っ赤になっていた。
医師と看護師は出て行った。
病室には家族だけになった。
父親はまた母親に話しかけだした。
さっきまでの大きな声ではなく、小さな声で母親の耳元でありがとうありがとうとずっと言っていた。
俺も妹も叔母もたくさん声をかけた。
しばらくしてもう1人の叔母が旦那さんと一緒に病室に来た。
脳死であることをもう伝えていたので、叔母は病室に入るなり「ねぇ~~!(姉)」といって母親に抱きついた。
それにしても今朝の脳死宣告以降、看護師さんは来てくれるが医師は誰一人として病室に来なくなった。
俺らのいるICUの向かいにまったく同じタイプICUがある。
どうもさっきから人の出入りが激しい。
聞けば母親と同じ生体肝移植を、昨晩終えた方が入ったようだ。
たくさんの医師のほかにも家族らしい人もいる。
笑っていた。
うらやましかった。
少し落ち着いた俺は、コーディネーターさんのところへ行き、亡くなったあとはどうすればいいのか?葬儀屋さんとかは手配してくれるのかを聞いた。
すべて手配してくれると言う。
脳死宣告以降、病室では不思議と誰も泣かず、母親との最後の時間を大事に過ごした。
みんなが色んなことを穏やかに母親に話しかけ、お礼を言い、ゆっくりとした時間が流れていった。
あれは今思っても魔法の時間だったと思う。
7月20日14時59分。
母親は旦那に手を握られ、息子や娘や妹に囲まれて、ゆっくりと天国へ旅立った。
叔母と看護師が妹の身体を支えるけど、まともに立っていられない状態。
父親も椅子から崩れ落ちて泣いている。
そういう姿を見てると、当たり前のように俺がしっかりしないとって強く思うようになった。
俺が頑張らないと!
俺がしっかりしないと!
これが大間違いだった。
2人の医師が言うには、感染症の原因になった菌が特定できていない。
唇を噛んだときに傷口から入ったのか、なにか器具から入ったのか、それとも元々身体の中にいた菌が繁殖してしまったのか。
原因を追求するために解剖させてくれないかという。
こうして文章で書くと冷たい申し出のように感じるけど、実際は俺ら家族や母親のことを充分に気遣ってくれた上での申し出だった。
今後の為になるのなら解剖してもかまわない。
でも俺の意思では決められない。
ガラスの向こうの処置室では、まだ母親の身体にしがみついている妹の姿が見える。
俺が妹の姿を見ると、2人の医師は「ですよね。妹さんがなんて言うかですよね。」と俺の気持ちを汲んでくれた。
妹のところへ行き、解剖のことを話した。
「また、お母さん痛い思いせなあかんの?お母さん手術とか嫌いやんか。もうやめてあげようや。」
もう立派におばさんの年齢の妹が、小学生の女の子のように感じた。
医師は妹の気持ちを尊重してくれた。
妹が母親に化粧をしてあげたいと言い出した。
体につながっているたくさんの管を抜いたりする処置もある。
主治医は化粧も含めてそれらの作業を、妹も一緒にさせてくれると言ってくれた。
ありがとう
それが全部で3000円くらい
元々の肝硬変が難病指定されてるからね
その3000円っていうのは手術前にした虫歯の治療代
虫歯の菌でも命取りになるから
パジャマのままで病院を出るのは気の毒すぎる。
病院が手配してくれていた葬儀屋と軽く打ち合わせをして、俺だけすぐに病院を出た。
外は雨が降っていた。
駅まで雨に濡れて歩いた。
このときの精神状態は今思ってもどうだったか思い出せない。
でもとにかく「俺が俺が」って、気負っていたと思う。
家に着いて必要なものを用意し、猫にゴハンをあげた。
2匹の猫は丸1日放っておかれてたのもあって、さみしそうに甘えてきた。
「お母さん、もう帰ってこーへんよ」
そう言った瞬間、涙が溢れてきた。
本当はこのときに大泣きしていれば良かった。
でも、泣いたらあかん!俺がしっかりせんと。って気持ちが強くて我慢した。
家の外へ出たときに、隣に住むおばさんと会った。
「さきほど母が亡くなりました」
おばさんは「ええっ??」と驚いていた。
そういえば母親はごく近い身内にしか手術のことを話していない。
近所の人や友達には入院していることすら言っていなかった。
おばさんからしたら寝耳に水だろう。
ICUの処置室の入り口に妹がいた。
俺の顔を見るなり
「お兄ちゃん!見て!お母さん綺麗になったよ!」と言ってきた。
妹は笑顔だった。
奥に進むと処置台の上に綺麗に化粧をした母親が寝ていた。
綺麗な母親の死に顔を見た瞬間、俺の中の何かが、音をたてて切れた。
本当にプチンと音が鳴った気がした。
全身の力が全部抜け、立っていられなくなりその場で座り込んで号泣した。
我慢していたものが全部崩れた。
これまであったこと、この数ヶ月頑張ってきたこと、なによりも本当に過多すぎるくらいの愛情いっぱいでこれまで俺を育ててくれたこと、なにもかもが全部が頭の中で粉々になった。
まったく立てなくなった。腰が抜けたってああいうことを言うんだろう。
自分でも驚いたけど、とにかくその瞬間からなにもできなくなった。
葬儀屋との打ち合わせがあったけど、もう俺にはできなくなった。
あれだけ頑張ろうと思っていたのに、何もできなくなった。
そのときに自分の感情をコントロールできなくなってることに気がついた。
無理して感情を抑えていたせいだろう。
もう大声で泣くことしかできなかった。
結局打ち合わせは叔母がやってくれた。
母親は、頭の先からつま先まで真っ白い布で覆われていた。
昔、雑誌でミイラを作る過程とやらの写真があんなだったような気がする。
横で父親が小さな声で
「あんななってしもて・・・・」とつぶやいた
病院の地下の駐車場で葬儀屋の用意した車に乗るときに、お世話になった看護師さんや医師たちが20人くらいが見送ってくれた。
顔見知りになった看護師さんも何人かいる。
みんな泣いてくれていた。
これも母親の人柄だろう。
みんなの涙がありがたかった。
主治医の女の先生が妹のそばにいた。
そういえば脳死が告げられたあと、俺は主治医に聞いた。
「お母さん頑張りましたよね?」
主治医は顔色を変えずに、こちらも見ないで黙って頷いただけだった。
そのときは少し冷たいような気がした。
その主治医が妹の両肩を掴んで、すがりつくようにしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」とボロボロと泣きながら土下座をするような勢いで謝っていた。
男性の医師が抱えるようにして起こした。
謝ることなんて何もない。精一杯やってくれた。
俺はすぐにそこへ行って、むしろお礼を言いたかった。
でもやっぱり体は動かなかった。
妹が「ここに入院したことも、手術をしたことも、何もかも後悔なんてしてませんよ」と笑って医師に言った。
主治医が「うわぁ」と泣き崩れた。
俺は医師がそんなんじゃ体も気持ちも持たんやろうに。。。と覚めたことを考えながらも、その医師の姿を見たときに心の底からありがとうと言いたかった。
あれだけ楽しみにしてたマンション。
仮通夜は俺のマンションでしてあげよう。家族全員の意見が一致した。
なにかと忙しかった。
親戚をはじめ母親の友達やらに連絡を取らなければいけない。
俺は変わらず何もできなかったので、妹と叔母がほとんどやってくれた。
母親のたいていの交友関係は父親や妹が把握してる。
もちろん、みんなに連絡した。
ただ、1人だけ、家族3人も叔母も知らない女性の名前が携帯に残されていて、電話をする前にこれは誰だろうかってみんなで調べた。
すると母親が入院してる間に届いてた手紙があって、その差出人がその方の名前がその方だった。
いかにも昔の方って感じの丁寧な字で、なんというかすごく心のこもった美しい文章で母親の病状を心配する内容で、俺や妹の身体まで気遣ってくれてた。
妹がその人に電話した。
母が亡くなりましたって。
予想通りの高齢の女性で、電話の向こうで大号泣して、かなりショックを受けてたらしい。
自分の体調のこともあって、もしかしたら通夜や葬儀には行けないかもしれない。
だからどうしても今、顔がみたいから、見に行かせてくれと。
母親は俺のマンションでゆっくりしてもらっている。
もちろんごく近い身内しかいない。
妹から俺に電話を変わったが、なにをどうしたって断れるような雰囲気じゃなかった。
鬼気迫るような感じで、どうしても会わせてくれって。
結局断りきれずに来ていただいた。
その方は85歳くらいで、肝臓も長年患ってて、つい先月心臓の手術をうけたばっかりで。
部屋に入って母親の顔を見た瞬間に、もうすごく泣き崩れてしまった。
話を聞くと、どうも西宮の病院に通院してるときに知り合った方らしく、母親との付き合いはもう20年にもなるらしい。
20年前というと母親が原発性胆汁性肝硬変って診断された時期。
叔母の話では、母親は当時すごいショックを受けてたらしい。
その頃にたまたま病院で知り合ったこの方をすごく頼って今まで色々相談していたようだ。
俺や妹のことをすごくよく知っていた。
母親は病気の悩みだけじゃなく、身内に言えないようなことまで、色んなことすべてこの人に話してた。
家族には心配をかけたくないからだろう。
母親の不安はすべてこの人が受けとめてくれていた。
実際、俺ら家族は本人がしんどいだと痛いだと言ってるのを聞いた事がない。
反対に、その方は独り身やったんで、母親のほうもその方の悩み事を色々聞いてあげてたみたい。
変わり果てた母親の顔を撫でながら、「あなたは私の支えやったのに。」ってずっと泣いてた。
妹の身体をすごく心配してて、1時間くらい妹と話ししたあとに母親に向かって「Hさん、あなたの娘さんと私は今?がりましたよ。あなたが繋いでくれた縁は大事にしますからね」って。
帰るときに俺に、「お母さんが亡くなったことはすごく悲しい事ですけど、残ってる方たちのほうが大事なんですよ。それを忘れずにお父様と妹さんをしっかり守ってあげてくださいね」って。
ありがたい言葉だった。
母親と一緒に過ごす最後の夜。
俺はドナーになる気マンマンだったけど、最終的には妹がドナーになった。
だから、もし将来自分の体がどうにかなったときに、ぜひ必要としている方へ提供しようと思って登録していた。
俺みたいなだめ人間でも役に立てるかもしれない。
世間にはドナーになる人が見つからずに亡くなる方々がたくさんいる。
その人やその家族に喜んでもらえるなら、臓器でもなんでも持って行ってくれと心の底から思っていた。
しかし母が脳死になり、息を引き取るまでの数時間、魔法の時間と言ってもいいくらいの穏やかで充実した時間を経験した今では、ドナーカードを持つ勇気はなくなった。
考えて考えて考え抜いた結果、ドナーカードを持つのはやっぱりやめようと。
こればかりは正しい答えなんてないし、もしかするとこの先に考えがまた変わるかもしれない。
でも今はやっぱりドナーカードを持つことはできない。
母の最期は、人間としては最高に幸せな最後だった。
旦那に手を握られて、息子や娘、妹夫婦に囲まれて静かに逝った。
そんな幸せな最後を迎えることができる人間がどれだけいるだろう。
それを思って、いつも「お母さん、良かったなぁ・・・」と心の中で声をかけてる。
読んでくれてありがとう。
なにか質問あれば答える。つーてもないだろうけど
まだ近い身内に不幸があったことがないから、自分にはどれぐらいの重さなのかわからないけど、>>1は流石だと思う
これからも長生きしてください
ありがとう
親孝行、出来る時にしなきゃな
今でこそ多少落ち着いたけど、2年前は尋常じゃないほど後悔したわ
本当にな~んにも親孝行してなかったからなぁ
夕方開けたばかりのティッシュが半分以上無くなったよ。。
ありがとう。そういってもらえると嬉しい
1日に親と一緒にいる時間を11時間と計算。
親が60歳から80歳まで生きるとします。すると、
親の残された寿命(20年)× 1年に合う日数(6日間) ×1日に一緒にいる時間(11時間)
=1320時間。 日数にすると55日。
今となってはそういうのもズッシリ心に響くんだけど、親が元気だとたいていそういう事に気がつかないよな。
孝行したいときに親はなしって本当によく言ったもんだわ
うん、独身。
この当時は彼女いたんだけど、母親がいなくなった悲しみがあまりに大きすぎて、気を回してあげれなかった。
いいおっさんなのに本当にダメ人間なんだ。俺は
いや俺はこのスレを見て>>1が駄目な人間とはこれっぽっちも思わないぞ
親が大変な時に彼女にまで気を回せる奴なんて滅多にいてないやろ
十分よく頑張ったと思うよ
明るく生きて天国のかーちゃん安心させてやろうぜ!!
自分の母親も怪我病気一つしたこと無かったのに急に。後悔しかしてないし今でも夢に出て来たらいっつも泣きながら謝ってる
本当にな。
まさか自分の親が死ぬなんて夢にも思わないもんな。
普通に考えれば、ほぼ確実に自分よりも先に死ぬのにそのことを想像もできなかったわ。
俺も今だに夢によく見る。
決まってICUで元気になる夢。
で、起きてから泣く。
自分の場合は学生で、実家離れて1人暮らししてたらクモ膜下で倒れたって連絡が親父から来てどうにか高速バスで帰って病院駆け込んだら、呼吸器つせて脳死状態だった。
ドラマみたいに頭が真っ白になるって本当にあるんだな。
初めは目の前の状況が理解できなかった。
でもいつとニコニコして優しい叔母さんが泣き疲れた顔でよく帰ってきた、、って言われてようやく把握して崩れ落ちた
涙が出た
みんなすごくがんばったんだな…
妹肝臓はちゃんと元の大きさに戻った?
自分が同じ立場になったら、迷わず肝臓を差し出せるか自信がない…
なんか涙が止まりませんでした
お母さんも妹さんも主さんも皆さんで見送ってあげられてよかった、、、
助かる、、、ってずーっと読んでで思ってました
主さんもその家族のみなさんも元気でやってますか?
皆さんの元気をお母さんも願ってると思いました。
これからも元気でやっていってください!
主さんは最後にいっぱい親孝行したと思います。